雑KiN3-改

ここは自分にとっての過去ログです。すなわち、他人にとっては単なるゴミ。

今日は12時に父親の見舞いに行った。足が布団から出ていて盛んに手を動かしている。特に苦しそうな声は出していない。意識ははっきりしていなかったが。


実家に戻って呼び鈴が壊れているからと言うので近所の店を回って買い求め、付け替え工事をする。これが出来てお茶を飲んでいるところに病院から連絡がある。15時前。それで15時半頃に急いで駆けつける。病室のドアが閉まっていたので死んだのだろうとは思ったが看護師さんが声をかけているのを見てまだ大丈夫なのかと思ったがやはり死んでいた。おっつけ弟も来たがぼろぼろ泣き出した。こちらは多少涙ぐんだりしたが感情表出は押さえられていたのでちょっとびっくりする。仕事がら感情鈍麻させている面もあるので薄情に見えるかもと思う。しかし内心としては悲しいと言うのもあるがほっとしたというのも大きいのだ。ここ5年ほどがあれだったからな。死ぬ前が見苦しいのは別離の辛さを和らげるためのものなのだ、という法話を聴いたことがあるが身に染みて実感した。それと昨日のような唸り声を聞いてしまうと更に。ああいう声を立てないで済むようになったのだし。それは悲しむことでは無いのだから。


取りあえず現実に戻って仕事のとりまとめをやっている人や課長にメールを送って連絡しておく。2時間ほど経って連絡あり。開口一番、冠婚葬祭は仕事に優先するから気にしないでくださいと言われたので多少気が楽になった。まあ余人をもって代えがたいと言うような大したことをしているわけではないので入れ替えはいくらでも可能なのだが。戻ってみたら仕事が無いとか。ううむ。


遺体の清掃や浴衣への着替えは看護師さんが行ってくれた。口が開いたままというのでゴムのようなものを顎にかけて閉じてくれるが完全には閉じない。最後には口で呼吸していたからな。その後、病院から遺体の退去を求められた。院内のチャペルで1日預かることも可能だがとのことだが、30年前に祖母の葬儀の時にお願いした葬儀社に弟が連絡を取ると30分としないうちにドライアイスを用意して駆けつけてくれた。そうして遺体を搬出する。病室のドアは全て締め切られ通路にはパーティションが立てられていた。患者にショックを与えないためだろう。車には母と私が乗った。死体の真横に座った私の顔から50センチと離れていないところに父の顔がある。もちろん布で覆われているので見えているわけではないのだが。思わず鼻のあたりを触ってみてしまった。こういうことをするべきではないとは思うのだが。そうして葬儀社に到着後、遺体を安置して線香をあげたあとにこれから2時間ほど打ち合わせに時間がかかると思われますと言われる。実際、決めなければならないことが色々とあって20時過ぎまで打ち合わせは続いた。火葬場を押さえるのが1番目。これにより告別式や通夜の日取りが決まってしまう。それで問い合わせてもらって見ると金曜日まで空きが無いと。寒さで死者が多いと言う訳でもなかろうが。それで通夜は無しにして1日で告別式と初七日の法要を行うことにした。家族葬と言うことと参加者も主に親戚だが年齢が年齢で50歳以下と言うのが一人かそこらで長い時間拘束できないと言う現実があるのだ。通夜までやっていたら告別式の日に倒れて参列できないかもしれない。喪主は母。母は私がすると思い込んでいたようだが。その他もろもろ細かいところまで取り決めてから、一旦実家へ戻り、辞去する。泊まれれば良いのだがゴミ屋敷に泊まれるような場所は無い。泊まるための用意もしていなかった。母親を一人でと言うのは気になったが大丈夫だと言う言葉に甘えることにした。


数日後に気が付いたのだが新響の定期演奏家にゆけなかったなあ。